昭和52年01月31日 朝の御理解
御理解 第55節
「賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。」
若い時には出来る、そういう若い時でなからなければ出来ないと言った様な信心はおかしい。年を取る程有り難い有り難いが募って来るような、いわゆる一年一年有り難うなって来ると言う、信心を本気で身に付けなければなりません。或る人が確かに椛目時代若い時にはもう本当に熱烈な信心をして、まあどんな問題が起こってもおかげになると自分でも断言ができる位に、その代わりに一生懸命はまって当時の椛目に参って来た。確かにおかげを頂いた。だから信心にはそういう一面が有るんです。
只ならガムシャラにお参りをするガムシャラにその水を被ったり断食をしたりして一心を立てますと、それこそ我が心に神がござるからおかげになると仰る様な言わば奇跡的なおかげにもつながる場合が有りますけれども、そういう信心ではいわゆる若い時には賃を取ってする仕事は若い時には頼んで呉れると言うのと同し事です。ですからそら過程に於いて尊い事ですけれども、それがいよいよ一年一年有り難う成ってくるという信心でなからなければいけない、いわゆる信心をいよいよ頂いて行く。
その前の五十四節に「徳の無い間は心配する、神徳を受ければ心配は無い。」と。段々徳を受けるに従って心配が無くなる様な安心、喜びのおかげが受けられるような信心を目指さなければいけません。言うならば信心が育たなければいけんのです。おかげが育っただけでは駄目です。信心が育たなければなりません。子供を育てると、けれども子供を育てる前に親自身が育たなければ成りません。子供に勉強させたいと思うなら親自身も勉強して教えれるだけのものを身に付けなければいけません
これは私が若いときにいわゆる私の座右の銘でしたが、もう十四、五の時分から私のその机の横に張っておったこれは文句ですけれどもね「節を大切にする人はのびる。」と私は書いて張っとりました。節を大切にする人は伸びる。だから節を大切にすると言う事は節が私を育ててくれると言う事に成るですね。節から挫折する人も有ります。節が来たので迷いが起こる人もあります。それを元気で乗り越えて行く人は伸びるんです。だから節が伸びる、節が育ててくれる訳です。
人生様々な節がございます。そこをしだごだで通ったんでは、おかげを受けても信心が伸びとると言う事にならなかったらつまりません。昨日或る方が長く寝んでおられます、もうこの頃何かしらんけど寂しうて寂しうてこたえんと言うのです。私はお孫さんが、お届けに来ましたから御神米に書き下げて上げました。日頃の信心をこういう時に頂いて、いよいよ信心を伸ばさなければいけないよと。もう淋しさこそ自分を育てる好機だ、言わばチャンスだと書いて上げた。
例えば昨日あたりの、御理解を頂いとりますと、言わば自分をいよいよ掘り下げて行く。いよいよ自分という者が、分からない程しに自分という者が分かってくる。これはもう自分は自分の様な者では、おかげを頂けんのだろうと思う位に、自分という者をギリギリ深めて行く。けれどもそういう自分であるのにも関わらず、今日この様なおかげを頂いておるではないか。
食べるに事欠く事はない、着るに事欠く事はない、住まいに事欠く事はない。いやむしろこの様に勿体ない程しのおまかないを頂いておる、天地の中に言わば生かされて生きておるその喜びと言うものがです、私の様な者でもと分からせて頂く時に勿体ないと言う心が生まれるという御理解でしたね。そいう時に信心がない人達はです、やっぱり挫折したりもう自分は詰まらんと思うたり言うならばかえって自暴自棄になったりする様なところをそこにいわゆる、高橋正雄先生のお言葉ではないけれども。
高橋先生自信もうギリギリの自分を見極められた、食べる資格の無い着る資格もないと言う高橋先生の縄帯び時代と言われる時代、見ること見ること自分を見ること、いよいよ自分と言うものを見極めて行ったら食べる資格もさえ無い程しの自分であるまで気がつかれえたところがです、食べさせずには置かん着させずには置かんという働きに歓喜感動なさっとられます。
昨日の、特別奉修員の方達の御祈念の後に、昨日の御理解のこれを頂いて、昨日の、御理解がまあ前編、後編と言った様な感じの内容、御理解頂いたんですけれどもね。御神前に出らせて頂きましたら、あのそれこそ、超特級の菊正宗の陶器に入ったのが有りますよ、『陶器と磁器と合わせた様な容器に入っている、いわゆる最高のお酒が入っているわけですが、そのねその空瓶と言う、か口の所がこう欠けておるところ』を頂くのです。口んところがね。
ははぁこれは今朝の御理解の事だな、自分が欠けておる自分というものが言わば欠けていない、自分は全うな事をしておるから、自分は良い信心をしとるからという風にまあそこに安住しておると言うてもです、心に有り難いというものが無かったらそれは中は空です。けれども自分のようなつまらない自分はもう欠けたおかげだらけだ、言うなら欠けておると言う事です。
いわゆる昨日の御理解で申しますと、ギリギリの自分というものを見極めた所に、自分の様な汚いつまらん者があるだろうかと分かった時に、自分ならなんぼでも神様はこの様にしてお生かしを下されてある事にやれ有り難い勿体ないと言う心が湧いてくる。私の様な者でも神様がこの様におまかないを下されてある、だから欠けておっても中にいうならば有り難い勿体ない畏れ多くという御神酒がいっぱい入っておったらいいわけなんです。欠けておってもいい訳です。
例えばそうりばってん割れとったらどうするじゃろうかと私思いましたが、これは直ぐその後に頂いたんですけども『その徳利がね半分にポコンと割れとるうとです。その割れの一寸窪んでおる所にでさえこうやって御神酒を入れて下さろうとする働きがあるという事です。もう自分なつまらんもういよいよつまらんという人でもその割れておるそのこう一寸この位のそこにでもそこん所が分かったらもうお水をついでやる丁度お杯の様にして注いでやる所』を頂いたんですけども。
この神様はね、もう本当におかげを下さろう下さろうと言う事に、掛かってござる神様だっと言う事が分かりますよ。どういう言うなら極悪非道の人間だと、いう自分をなら見極めた時であっても、自分の様なだらしのない男であると、女であると分かってもです、そういう自分でも、この様なおかげを受けておると言う事に、目覚めた時に神様はそこにもう有り難いものを下さる。お前はもう欠けとるけんで、おかげはやらんと言った様な神様じゃない事が分かるですね。
私は昨日、特別奉修員の方達にその事を聞いて頂いて、ああ昨日の朝の御理解と、今日の皆さんが頂く御理解とを一つに合わせると、本当にもう完全な一つの御理解だね、と言ってまあ話した事でした。合楽の御理解はここんところが、有り難いと私は思うんです。自分と言う者を見極める、そこから勿体ないと言う事が、確かに分かってくる。それでもその様なおかげを頂いとるんだから、という所に勿体ないという心が起こってくる。大抵そこまでですかね。
けれどもね、その欠げておると言う自分が自覚が出来て中に御神酒が入っておると神様が欠けてはおらんかの様なおかげを下さるというんです。神様がそれは例えばなら私の場合なんかそうです、もう本当におかげだらけなんだ、もう欠けておる所ばかりなんだけれども、ならそういう詰まらん私にでもかく神様はおかげを下さってあると思うともう有り難い勿体ない、それこそ涙がこぼれる程しに勿体ないと思う。
そこにはもう神様がです、欠けてはおらんかの様に完璧の信心が出来ておるかの様にして、おかげを顕して下さっておるのが今の合楽の御比礼です。この神様はそういう神様なんですね。その辺の所がもう本当に救わずはにおかんと言う神心をそこに感ずるわけでございまけれども、私どもが育たなければならん。若い時にはそれこそ賃を取ってする仕事は若い時には人も頼んでくれると言う事は、若い時にならどういう修行でも出来る、そんなら金光様じゃなくても良か。
一心を立ててさあ水を被る、断食をする様々な修行をさせて貰うて一心不乱に拝んだりするならばです、言うならこの柱を拝んでもおかげは頂ける。それでその人が言われることがです、ほんにこの位のおかげなら先生もう若い時ならすぐ頂きよったばってんもう年取ったけんもういけませんちこげん言うんです。そりゃあそうですよ、年を取ったらそげん若い時のごたる事が出来る筈がなかもん。
けれどもその人がもしなら信心とは一年一年有り難う成ると言う事が信心だという所に目指して信心を頂く信心をお育て頂くと言う信心に成っておったら、もう家の中で炬燵の中で本当に勿体ない事じゃあるとおかげを頂いて有り難いと、有り難いはいよいよ募っておかげが頂ける事に成るでしょう。昨日は高柴さんの所のご両親の式年祭がございました。もう大変丁度親戚の方が丁度お参りしおせましてね。
そのお祭りを拝んでから後の御直会まで頂きながらもう私はこげな御霊さんのお祭りは始めてでしたちうてたまがる。小倉の教会に参っておられる。だから小倉あたりはそんな事じゃないでしょうと、けども此処では親の式年祭ち言うならこん位なお祭りは誰でもしますよと言うたら、はあと言ってたまがっとられました。しかし真心と言うものを現したらあげんなるのです。私が大変その事のお礼をさせて貰いよりましたら、『この後の掛かる所の高い安楽椅子を二ついただいた。
丁度子供が親に安楽椅子を贈った様なもの、ところが神様にお願いさせて貰いよったら今度は漢字で安楽と頂いた安と楽とが別々にこうなる所を頂いたんです。』だからこれからの信心がです本当に遺族の者の信心、それから本人たちもなら安楽椅子だからと言うてね、それこそあの極楽ちゅうところはバサラカよかごたるばってん、そげん良かところじゃなかです。蓮の上にちゃんと座っとらんなんなら、退屈で退屈で仕様がなかごたる所らしいんですよどうも。
なら子供が安楽椅子をくれたからと言うて安楽椅子にかけてずうっと、はあこれはほんによかち言うちから言いよったばってん一時間も掛けてとくともう降りようごたる。だから安楽と言う事は必ずしも良いと言う事じゃあない。それから降りて御霊は御霊なりの一生懸命の修行させて頂いて、そしてヤレヤレとその安楽椅子に腰掛けた時にああ子供の真心ちゃ有り難いもんだとこう言うことになって来る訳です。
その御霊様のお祭りを仕える一時間ばかり前にやはり高柴さん所の一番下の息子の盛昭さんの子供が出来ました。昨日が初参りでございました。それでそのお届けをさして頂いておりましたらね、こう『羊の群れ』を頂くんです。どう言う事じゃろうと思いよったら、そのこの頃あの人どんがこの頃夫婦ちょっと迷いが起こっとる事が有るんです。お仕事の事やら何やら彼やらですね。又養子に行っとりますから、養子先の色々な事やらで一寸迷いが起こらんならんならんような事が起こっとる。
ははあ、これはこの人どんが迷うとるちいう事ばいなと思うた。キリスト教の聖書の中に迷える羊と言うのが有るでしょう、ああ迷うちゃいかんなあと思いよったら、神様から『さんずい偏』を頂いたんですこうやって。だから羊と言う字を書いてさんずい偏と書いてごらんなさい。太平洋の洋という字になるでしょう。例えば親が子を思うと言う思いはもう切実なんです。親孝行という人はです、その自分が子供を思うような切実さよりももっと切実さをもって親を思う人が親孝行です。
所がなかなかそんな親孝行なのがおりません。自分の子供の事はもうそれこそ一生懸命その思うのですけれども、なら子供を思う程しに親を思いません。金光様のご信心はその子を思う以上の思いで親が思える様に成らなければ本当の親孝行とは言えません。それで盛昭さん達夫婦に申しました、ね。子供が可愛ゆうしてこたえん。まあとっても可愛いらしい子なんです。もう実に魅力のある可愛らしい子供なんです。
もうそれこそ眼の中に入れても痛くない程に可愛いいだろうと思うけれども、その可愛い子供に本当に子供が幸せに成ることのために親がこの位の事であっち迷いこっち迷いとする様な事では、子供に対しておかげにゃならんぞ。こういう時に一切を神愛と受け、成り行きをいよいよ尊ばせて頂いて行くと言うような信心を、言うならさんずい偏と言う事はしぜんの流れとかお恵みとかと言う意味なんです。
だからその自然の流れを本当に一切神愛として受けて行く様な行き方をさせて頂いたらこの子の上にそれこそ洋々たるおかげが受けられるであろうと言う御理解でした。それで私霊祭が済んでから申しました事でしたけれどもね、高柴さん達の場合は御両親のためのそれこそ真心一杯の御用をさせて頂いた。子供は自分の子供の為の初参りの御礼のお祭りをしてもろうた。
それが一つになって、親が子を思い子が親を思うと言う思いが、せめて同等位になるとおかげが受けられるよと、言うてまあ話したことでしたけれど。信心のお育てを頂こうと思うならばです、自分の思いの欠けておるところを、なら欠けておるところを、せめて形のうえだけででも、表さなければいけないと言うのです。それが昨日の、高柴さんのところの御両親の霊祭。
高柴さん達でも子供を思うような思いと言うものは、親に対して然も霊様になってござるから、そう実感としては無いだらうけれども、欠けておるけれどもならあれだけの、それこそご親戚の人がたまがられる様な。言うならば賑やかなお祭り真心こもったお祭りをさせて頂いて。欠けておるけれどもですそういう形に表すと言う事によって神様は言わばそのまま神様が真心で両親に安楽のおかげを贈らせて頂く程しのお祭りに成ったと言う事に、所謂神様がさっきの話じゃないけどカバ-して下さる。
欠けておっても形に表すからおかげを下さるのです。昨日は一日十年祭を目指しての特別奉修委員の方達の会合が終日あっておりました。もう私皆さんは新二階でしとりましたからとうとう顔も皆さんは合わせんなりで、昨日は大変お広前が忙しうございましたからせんでしたけれども、如何にして十年祭を仕えるか如何にして十年祭を迎えるかと言う事の話し合いであったと思うのですけれども。
皆さん十年祭にこの寒修行を掛けようという風にあそこに書いて、あれは私が書かせましたんですけれども掛けなさいませよ。十年祭に掛ける。今年は私は若先生がそれをあれする前にどういうような行き方でまあさせて頂いたら良かろうかと。だからうちの十年祭は借金まで負うてからはせんぞと私こう申しました。この頃阿部野の教会のね、もう借金どん負うてするち言うのではなくてから。もうこの前の記念祭には借金負うてしたけれども、この前の記念祭には五千万からの借金を負いました。
けれども今年は今度の十年祭は借金負うてからまではせんぞと、それがあんたの腹の中にあってそして皆の話を聞いとけと私申しました。そりばってんあんた今現金がこの位しかないとに、それ以上のことば特に秋永先生はこうしたことば思いござるですばいち。そりゃあ良いじゃないか。それが氏子の真心であるならば、それを受けさせて貰うてそれが出来る位におかげ頂いたら良いじゃないかと。信者が自覚することだよと。合楽教会の信者であるという自覚がでけたら記念祭の事思わずにゃおられんのだよ。
記念祭の事を思うたらそれこそ記念祭までにはどうでもこれこれだけのおかげ位頂かんならんと言う人が出来たら、例えばならどう言う大きな計画が立てられておっても出来んはずがないよと私は申しました。皆さんね、それによってです徳を受けると心配はないと言うがです、なら文男先生がねここの開教式に当たってこの御造営が出来た、ならこの御造営が出来る事のためにその当時の百万円と言うならそれは文男さんに取っては大変な大金だったろうと思うです。
それで五カ年計画でせめて五カ年位ではと思うとった所が、御造営が二年間も掛かりましたらから、二年間の終わる時にはそれが見事にお供えが出来たではないですか。そしてなら彼が言っておる事はなんですか、以来百万円と言う金には不自由せんと言うとるですよ。素晴らしいでしょうが。私は今日は信心を育てると言う事、信心とは若い時にガムシャラな信心、賃を取ってする仕事なら若い時には頼んでくれるけれどもと言う事はです、若い時ならガムシャラに神様にお願いしたりお縋りしたりする信心で。
おかげを受けると言う様な信心ではなくて、年を取っていけば年を取って行く程に有り難うなって行くと言う信心を頂く。そういう信心のお育てを頂かなければならない為に、私はこの色々淋しさこそ自分を育てるチャンスであるとか、節を大切にすると言う事は伸びると言うことだとか、子供が育つ前にまず親が親が育たなければならないとかいう育つと言うことをあらゆる角度から色々聞いて頂いたんですけれども、結局御用が私どもを育ててくれるということが分かりますね。
勿論その御用をすりや助かるじゃなくてから、所謂文男さんもその一生懸命なんですよ問題は。真心なんですよ。だから記念祭迄にはどうでもというなら願いを立てて、それがもし成就した時には、もうおかげで以来百万円のお金には不自由せんで済む様になりましたと言う、それが私は段々有り難うなって行く信心であったからだと私は思うです。いよいよ有り難うならせて頂くための信心。
言うならば信心修行がです、只おかげを頂く為のガムシャラな修行ではなくて、いうなら十年祭に掛けると言う事は、神様今の合楽では一番喜んで下さる事に懸ける事になるのですから、おかげに成らん筈もないしそれが力にならない筈もない。お育てを頂かない筈も無い。そういう信心が言わば期せずして自分を此処まで育てておってくれたという様なおかげになるのです。
今日はここにお参りになっておられる百名なら百名の方がです、その気になっておかげを頂かれたら、今日こうして朝参りをしておられる方だけでも記念祭が出来ましようが、その気になられたら。私はまだ昨日の話を聞いてからどの位の事が出来るか、聞いてもおらんのですけれども。育たなければなりません。だから皆さんにも育てと言うからには私も育ちますことに精進します。
お互いが育っていかなければ成らん。そして例えばです私共の家庭生活に入らして頂きましても様々な節に出会いますけれども、その節を日頃の信心を生かして乗り越えさして貰う。淋しい時も人間はあります、けれども淋しい事はどうにも仕方が無いにしましても、淋しいけれども有り難いと言う事に成って来るのです。そすと神様がそこをカバ-して下さるのです。欠けておるのです。
もう自分の様なつまらん者はとてもおかげ頂ききりめと思う様な自分をそこに発見してもです、それでもこんなおかげを受けておるじゃないかと言う事に気がつく時に勿体ないと言うことになるのです。その勿体ないが欠けた徳利に入っとる様ですけれども、そこに気がつかせて貰うて勿体ないの信心がでけたら、神様が如何にも欠けてはおらんかの様にしておかげを下さる。
高柴さん達が昨日御両親の霊祭を仕えていくら真心一杯ですと言うてもです、よくよく見てみるとまだまだ欠けておることだらけであろうと、けれども神様が欠けておらん、言うなればそのようにしておかげを下さっておるという、御霊に対するそういう働きというものを頂かして頂いて思ったんですけれども、欠けておるけれども形の上にこれだけの事が表された。もう欠けだらけではつまらん。
なら例えばそうでしょうもん、自分の子供と他人の子供と比べると言うたら、そりゃあ自分の子供が可愛いいように、自分の子供と他人の子供が目の前で転んだ、そういう時にはどうしたら良いだろうかと四神様にお尋ねした信者があった。そしたら四神様が他人の子を起こす気になれば、お前の子は神が起こしてやると仰ったそうです。だからまあ他人の子じゃけん自分の子供の様な切実心が起こるのじゃないのですよ。
けれども形の上にそれを表すと、こちらが所謂本当に自分の子の可愛さと言う様なものを、そこに表したかの様にしておかげを下さるのです。霊祭のお祭りでもそうです。まあだ足りぬものばっかりばってんがと、一生懸命したようではあるけれどもやっぱりけれどもならその親戚の方が来て言う様にこげな霊祭のお祭りは始めて見たと言う様な、形に表しておられると言うことで神様がいかにも出来たかの様にして下さる。
その辺の所がこの神様は確かにね、よりおかげを頂かせずにはおかん助けずにはおかんと言うことだけを考えておられる神様だといった様な事を思います。そこで私共もいよいよです信心とは一年一年有り難うなって行くという、信心を目指さして貰うて、そういう信心を有り難いというものをお育てを頂くことの為の今日は内容に成るような話をまあ色々聞いて頂いたわけですね。
どうぞ。